86.四月二十五日、ある奇妙な解放記念日 もう何年も前のことだ。すでに三月だというのに雪の舞っていたその日、ヒッチハイクをしていた三十歳くらいの若者を、私は車で拾ってやったことがあった。道すがら、


『見えないものの踊り』


86.四月二十五日、ある奇妙な解放記念日


 もう何年も前のことだ。すでに三月だというのに雪の舞っていたその日、ヒッチハイクをしていた三十歳くらいの若者を、私は車で拾ってやったことがあった。道すがら、何かおもしろい話をしてくれないかと頼んだのは、重苦しい沈黙を感じた私の方だった。

 「語るに値するようなことは特にないけど…。あるとすれば、アウシュヴィッツの収容所で過ごした子供時代の二年間のことぐらいだな。俺はそこに、貨物列車で連れて行かれたんだ。父親と母親が一緒だった。俺たち家族はそこでバラバラに引き離され、結局俺は両親の顔を二度と見ることはできなかった。その時、俺は七歳だった。食事がきちんと与えられたのは、それが俺の受けた実験の一部だったからさ。ウィルヘルムという、耳が半分欠けた医者がいてね、俺は彼の耳がなぜそんな風になったのか、彼に聞いたことがあった。すると彼は、俺に目を向けることなく答えたよ。『君の悲鳴を聞かないためだ』ってね。冷えきった金属みたいなイタリア語だった」。
 「ひどいことをされたんだ?」
 「やられたことそれ自体は話すことができないんだ。思い出そうとすると、気を失っちまうのさ。なぜかわかるかい? 当時、子供の頃もそうだったんだけど、奴らが俺を実験台にするたびに、俺はその苦痛で意識を失ってたんだ」。
 「今、恋人はいるのかい?」
 「いや、不能だからね。あそこでの地獄の日々、奴らの実験で俺は、セックス知らずの天使になっちまったのさ」。

 その後で知ったことだが、このマウロはローマに、しかも私の家のごく近所に住んでいて、小さな宿屋を経営していた。

 私たちはよく顔を合わせ、互いに行き来する友人となった。そしてあれから、つまり私たちの最初の出会いから、三十年が過ぎた。マウロ・レーヴィが私を呼び出したのは二〇〇六年四月二十五日の解放記念日、昨日のことだ。くしゃくしゃになったメモに、彼は記していた。「すぐ来てくれ。生きるか死ぬかの問題だ」。
 私はすぐに駆けつけた。彼は前後逆にした椅子に腰かけ、背もたれに腕を組んで寄りかかっていた。なにかをじっと見つめるその目には、涙があふれていた。彼の視線の先では、みすぼらしい年寄りが事務用の椅子に座って眠りこけていた。
 「ドイツ人だ」。マウロはその老人から目をそらすことなく、身動きさえせずにつぶやいた。「法王のもとへ巡礼に来た団体のひとりさ。他の連中は観光をすると言って出て行ったよ、この男のことを任されちまった」。
 「それで? それが、生きるか死ぬかの問題なのか?」
 マウロ・レーヴィは椅子にもたれかけた体をゆっくりと起こし、テーブルの上の懐中電灯を手に取って、それから、変わらず寝入っている老人の傾いた頭を照らした。その左耳が、半分きれいに欠けていた。マウロ・レーヴィの目に、再び涙がにじんだ。
 「彼なのか?」私は尋ねた。
 「身分証で確かめたよ。ウィルヘルムという名だ。アウシュヴィッツの医者と同じなんだよ」。
 「どうするつもりだ?」
 「何もしないよ。この男は目も見えないし、耳も聞こえなけりゃ話すことさえできないんだ。
 俺は単に、君にこの男を見てほしかったんだ。それで、今さら俺とこの男を引き合わせるって運命は、どんなメッセージを俺に伝えようとしているのか、それを理解するのを手伝ってほしかったんだ」。
 「きっと君に教えているんだ、運命は。許さなきゃいけないってね」。

*訳注:「四月二十五日」とは・・・
解放記念日(Anniversario della liberazione)である四月二十五日は、イタリアにおける国民の休日。長くファシスト対抵抗勢力という内紛状態にあったイタリアの、終戦記念日に当たる。第二次大戦末期の一九四五年四月、ファシストおよびナチス・ドイツに対するレジスタンス(パルチザンに代表される抵抗運動)や連合軍により、当時最前線であったポー川流域にあるボローニャやモデナ、パルマなど各都市が次々に解放された。四月二十五日は、ミラノやトリノなど、北部の主要都市が解放された日である。直後の二十八日には、ファシズムを主導したベニート・ムッソッリーニが、ドイツへ逃亡中のコモ湖畔にてパルチザンにより処刑された。


訳:オールドファッション幹太
一九七八年、東京都八王子市生まれ。山形県大江町育ち、京都市在住。大阪外国語大学(現大阪大学)大学院学術修士。十一年に及ぶ学生生活の間、二度イタリアに渡り、一度は放浪三昧、一度は映画三昧の日々を送る。修士論文では、ネオレアリズモの父チェーザレ・ザヴァッティーニの登場を再構築するも、次第に「モノとしての映画=フィルム」に関心を移す。ボローニャ大学および伝説的シネマテーク「チネテカ・ボローニャ」での遊学が決定的なきっかけとなり、帰国後、古い映画(とその復元)でメシを食う道を選び今日に至る。シルヴァーノ・アゴスティ監督の作品上映イベント(二〇〇九年~)では、台詞の聞き取りと字幕の翻訳・作成を他メンバーと共同で担当。