43.緑色の眼鏡 金物屋に行こうか、行くまいか。外は土砂降りのうえ、必要なものは、ねじがたったの二本だけ。 迷った時はいつものごとく、


『見えないものの踊り』


43.緑色の眼鏡


 金物屋に行こうか、行くまいか。外は土砂降りのうえ、必要なものは、ねじがたったの二本だけ。
 迷った時はいつものごとく、結局行くことに決めて、雨に負けじと曲がり角の店まで走ることにした。そして、後々思うことになる。面倒がらずに動いてみると、今回もまた思いがけずに心を揺さぶられたな、と。
 
 ボロと呼ばれている金物屋の爺さんはちっぽけなねじを二本、大きすぎる紙で包んで、お決まりの芝居がかった口調で言う。
 「だんなさま、ご所望のねじを二本ご用意いたしましたよ」
 「いくらだい」
 「いくらかって。それじゃ、いくらか話を聞いてもらおうかね。ねじが二本だから、二分ほど聞いてもらうよ」
 こうして爺さんは、僕に過去を語って聞かせようと心を決めた。
 
 彼は現在八五歳。一九三八年に故郷のムジーレ・ディ・ピアーヴェ村を出た。
 家族は出発の直前まで何も知らなかった。
 「おれはローマに行く。手押し車とシャベルは持って行くよ。着いたら手紙を書くから」
 年老いた両親はうなずいた。うなずいたまま、下を向きっぱなしだった。
 そうしてボロは出発した。手押し車を押しながら、村をひとつ越え、ふたつ越え、まっすぐローマに向かった。
 ただし、首都のローマまで七〇〇キロも離れているなどとは、知る由もなかった。
 それでも、逃げ場のない毎日から抜け出すには、ローマに行くほか手だてがなかった。
 故郷の空っぽで無意味な日々を束の間忘れさせてくれるのは、つらい仕事だけだったのだから。
 彼はいまや、埃っぽいけれど自由へ続く道のりを進んでいるのだった。
 朝はまだ暗いうちに目を覚まし、早朝の澄んだ空気の中を歩いた。太陽が空の一番高みに届くと、どこにいようが歩みを止めて、手押し車とシャベルで働いては、食べものや小銭を稼いだ。
 
 ローマに着くまでには四カ月かかったよと、遠い目をして微笑みながらボロ爺さんは言う。
 けれど、もう独りぼっちではなかった。ラツィオ州北部の小さな村で、ある娘と恋に落ちて一緒になっていたのだった。
 若者は歩いて、娘は若者の押す手押し車に乗ってローマに入った。どうやってたどりついたのか、いつしかヴィットーリオ・エマヌエーレ二世記念堂の前に立っていた。
 「すてき。なんて大きいのかしら」
 娘はひどく感銘を受けていた。
 「わしらは幸せだったよ。しかしね、何年か後に、妻は連れ去られてしまった。ユダヤ人だったんだよ。
 あれは夜中だった。ファシストの奴らがやって来て、妻を連行していったよ。強制収容所に送るためにね。
 それ以来、二度と会うことはなかった。
 何年か前に、息子と一緒にアウシュヴィッツに行くことになってね。
 母さんが死んだ場所を見てみたいって言うものだから。隅から隅まで見学させてもらったよ。殺された人たちの眼鏡や靴、髪の毛が山のように積んである倉庫もね。そうしたらほら、足元に緑の縁の眼鏡を見つけてね。まさに妻が掛けていたようなやつなんだよ」
 僕はうなだれた。
 
 ボロ爺さんは上着の下に着たシャツのポケットの中から、片方のレンズがひび割れた緑色の眼鏡をていねいに手に取る。
 ビニール袋から取り出す。
 「ほら、ごらん。つるに傷があるだろう。こっちの奥には接着剤の跡が残ってる。レンズを留めるのにわしが塗ったんだよ」
 潤んだ瞳から、涙がぽたっ、ぽたっとカウンターに落ちる。
 二本のねじと、二分の物語と、二粒の涙。


訳:セサミあゆみ(しょうとあゆみ)
一九八三年、広島県生まれ。イタリア語に魅せられ、ピタゴラスの歩いた町を眺めつつ遊学し、大阪大学大学院博士前期課程修了。調理師専門学校に勤務して食に携わる。もっぱらの関心事はことばと暮らし。